どぶろく「原いっぱい」をお造りになられていた畑中喜代司さんが、昨年11月にご永眠されたことを、私は下の朝日新聞の記事を読むまで、まったく知りませんでした。地方分権推進特別委員会の視察や、娘の夏休みの自由研究(そばの作り方)でお世話になりましたが、その時は大変お元気でした。まさか急にお亡くなりになるとは・・・本当に惜しい人を亡くしました。高槻市全体にとっても大きな損失です。ご冥福をお祈りいたします。
気丈な奥様の姿勢には、本当に頭が下がります。ぜひ下の朝日新聞の記事をお読みください。
★亡き夫、残された私。愛を詰める夫婦酒
2010年02月10日
http://mytown.asahi.com/osaka/news.php?k_id=28000001002100001
高槻市にある「どぶろく特区」で、昨秋から中断されていたどぶろく造りが2カ月ぶりに再開された。蔵元は、ひとりの女性。不治の病を患い、昨年11月に逝った夫の「休耕田をよみがえらせ、田舎のよさを発信したい」という情熱を引き継いだ。
「うん、ちょっと甘めでおいしくできた」。8日、高槻市北部の原地区。納屋を改造した酒蔵で、どぶろく「原いっぱい」蔵元の畑中秀子さん(61)は満足そうにうなずいた。アルコール度数や糖度を調べるまなざしは真剣そのものだ。
どぶろく造りを思いついたのは、地元で生まれ育った夫の喜代司さん(享年65)だった。2004年に市役所を定年退職後、「畑中農園」を開業。秀子さんや近所の人、友人らと野菜やそばを栽培し、自宅にそば屋を開いた。
そして、休耕田を活用して、もっと原を元気にしたいとどぶろく造りを考えた。農業振興を図りたい市も協力して、原と、隣接する樫田の両地区で国の構造改革特区「どぶろく特区」を申請。07年に認可された。
どぶろくは通常、年6キロリットル以上の製造見込みがないと製造免許が得られない。特区では、農園レストランなどを営む農業者が製造するなどの要件を満たせば、少ない量でも免許を取得できる。
喜代司さんが免許をとって、その年の冬に「原いっぱい」を完成させた。原にはいいところが「いっぱい」と、「腹いっぱい」をかけた。
「甘酸っぱくておいしい」「お土産にいい」と、地元だけでなく全国から注文が舞い込んだ。ハイキングの途中に立ち寄り、小瓶を下げて帰る人も多かった。
昨年の6月下旬。「田植え頑張りすぎて腰が痛いわ」と喜代司さんが顔をしかめた。1カ月後、肉腫が見つかった。背骨に3カ所転移していた。痛みを和らげる以外に、治す手だてはなかった。
農園をどうするか、秀子さんは尋ねたいことが山ほどあったが、病床で喜代司さんは何も言わなかった。秀子さんは春に立てたスケジュール通り、田畑の世話や農業体験イベントを何とかこなした。
水がのどを通らなくなり、喜代司さんが亡くなったのは11月13日。8日後に市民参加の酒米収穫祭が控えていた。葬儀を終えると秀子さんはすぐ、参加者に配るために仕込んでいたどぶろくの瓶詰め作業に追われた。
夫は何を考えていたのか。心残りだったんじゃないか。「これまで手伝ってくれた多くの人たちのためにも、亡くなったから辞めますとは言えない」。すべてを受け継ぐことを決めた。
どぶろく造りのほとんどの工程は共に手がけてきたが、改めて兵庫県立工業技術センターで基礎知識を学び、喜代司さん個人に認可されていた酒類製造免許を相続して、蔵元に就いた。
1月下旬、初めての仕込みをした。酒米を見ると、刈り入れの終わるころに息を引き取った夫の姿が思い出される。「私もお父さんも実はお酒が弱くてね。仕込みで試飲してると、『あかん、酔っぱらってきた』ってよく言ってました」。秀子さんは目を潤ませ、ほほ笑んだ。「原いっぱい」は3月上旬に店頭に並ぶ。