高槻ご意見番

「高槻ご意見番」の代表で、高槻市議会議員の北岡たかひろのブログです。

【池田大作贈賞訴訟控訴審】次回は4月8日

本日10時から大阪高等裁判所池田大作贈賞訴訟控訴審の第2回口頭弁論がありました。

今日で結審かと思ったのですが、裁判長は高槻市側に対して、私の出した準備書面への反論を命じ、また双方に対し2項目について釈明を求めました。その2項目というのは、先行行為・財務会計行為の違法性という、住民訴訟でよくある法的なものと、市長・奥本務氏個人の過失についてです。

裁判長は、特に高槻市側に対して、「奥本務氏個人の過失についてまったく積極的な主張をしてこなかったが、過失がないというのならばその根拠を示しなさい」と、指揮されました。

過失についてですが、奥本市長は、平成21年6月29日の高槻市議会本会議で、私の質問に対して、

○市長(奥本 務) 先ほどから担当部長が答えておりますように、市民の文化活動に大変寄与していただいたということで、そうしたいわゆる文化振興事業団からの推薦もあり、私として心から市民にとって大変有意義な内容であったと判断して贈らせていただいたものでございます。・・・(中略)・・・(北岡隆浩議員「当日は公演を見られた後に賞を贈られたんですか。」と呼ぶ)聞かせていただいたから、そういう気持ちがさらに強くなったということでございます。



と答弁しています。つまり、自ら判断し、公演前からそういう気持ちをもっていた、ということなのですから、過失というより故意というほうが適切ではないかと考えます。

裁判長の前回と今回の勢いでいくと、もしかすると、奥本市長の証人尋問ということもあるかもしれないなと思いました。

次回は4月8日10時15分、大阪高裁73号法廷です。ぜひ傍聴にお越しください。

今回、私が提出した準備書面は以下のものです。

平成22年(行コ)第137号 損害賠償請求控訴事件
(原審事件番号:大阪地方裁判所平成21年(行ウ)第153号)
控 訴 人  北岡 隆浩
控訴人  高槻市

準備書面

平成23年1月28日
大阪高等裁判所第13民事部D1係 御中
控訴人  北岡 隆浩

 被控訴人の平成23年1月14日付準備書面(1)に対し、以下のとおり反論する。

1 「1『高槻市文化振興事業団の意図と本件賞状との齟齬』について」中、

⑴ 「⑴ 『賞状の表題』について」について

控訴人は「感謝状の表題及び文案の作成は、贈呈の適否の審査と並行して行っている。」等とするが、表題を「感謝状」とするか、明らかに感謝状と分かるような文面にしなければ、誰もそれを感謝状と認識しえないのであるから、本件賞状のようなものは感謝状とはいえないのであるし、また、本文についても、端的に高槻市に対する貢献の事実を記載すれば事足りるのに、高槻市とは無関係の池田を殊更に礼讃する内容のものにしているのだから、感謝状の表題及び文案の作成、並びに贈呈の適否につき、適法かつ公正な審査がされたとはいえない。被控訴人の過去の感謝状(甲15)とは大きく異なることからしても、本件賞状は、感謝状の体を成していないことは明らかである。よって、本件賞状が、表彰条例16条に基づく感謝状であるといえないことは明らかで、同条例に反する新たな賞が、被控訴人により勝手に創設されたと見るほかはない。したがって、被控訴人の主張は信用できない。

控訴人は、表彰条例及び感謝状贈呈内規に、感謝状の表題や文面等についての定めがないこと等から「国際文化交流貢献賞」としたとするが、同条例及び同規程において、被控訴人が自由な裁量で表題を決めてもよいという規定はないし、同条例には「国際文化交流貢献賞」の規定は一切存在せず、賞については名誉市民賞等の7つのものの規定しかないことを、当然に被控訴人は理解していたはずであるから、被控訴人が、同条例に反することを承知で、故意に、本件賞状の表題を決定したことは明らかである。

控訴人は、感謝状の贈呈日まで日程的余裕がなかったとするが、その割には、他市の事例を参考にしたり、インターネットで検索したり、民音に確認したりと(乙4)、他の感謝状に比して、非常に手間をかけている。他の多くの感謝状は印刷であるから(甲20)、それらについては十把一絡げに画一的な表題及び文面が作成されたといえるが、それと比較すると、被控訴人が本件賞状にかけた手間は、異例なものといえる。また、他の感謝状は、文化の日に一括して贈呈されているのに(甲16)、本件賞状だけが、民音主催のコンサートに、市長がわざわざ出席して、コンサートを最初から最後まで聴き、その終了後に登壇し、手交されたことも、異例である。

なお、被控訴人は、京都市が池田に贈呈した「国際音楽文化交流貢献賞」の文面を参考にしたというが、原審においても議会においてもそのようなことを主張したことはなく、取ってつけたような言い訳としか考えられない。そもそも表彰条例の諸規定からすれば、「国際文化交流貢献賞」という賞を授与することが違法であることは、被控訴人には十分に分かっていたはずであり、たとえ他市がどのような賞を贈ろうとも、その被控訴人の行為の違法性が治癒されることはない。

以上からすれば、文化振興事業団の推薦書(甲5の3枚目)では「感謝状」とされているものを、被控訴人が「国際文化交流貢献賞」と変じたことにより生じた齟齬は、被控訴人が、故意に、表彰条例違反を犯した証左であるといえる。

⑵ 「⑵ 『賞状の被贈呈者』について」について

控訴人は「民音及び創立者としての池田大作氏に対して感謝状を贈呈したものであり、池田大作氏個人のみを対象として贈呈したものではない。」とするが、本件賞状の1乃至3行目、並びに8乃至10行目の記載は、池田個人の活動・実績を讃えたものであることは明らかで、残る4乃至7行目についても、その冒頭で「とりわけ貴殿の創立された『民主音楽協会』」としていることからすれば(民音自身が民音を設立できるはずがないのであるから)、この「貴殿」も、池田を指すものとしか考えられない。したがって、本件賞状の文章の全てが、池田個人だけを、礼讃する内容のものであるといわざるをえない。

団体の活動による高槻市への貢献について表彰・感謝するならば、団体そのもの、あるいは団体の代表者に賞状を贈るべきであり、創立者に対して贈るということは、常識的には考えられないことであって、社会通念に照らして妥当性を欠くものといわざるをえない。

池田が、宗教法人創価学会の名誉会長であることは、世間一般に広く知れ渡った事実であるから、池田個人に対し、池田を礼讃する文面の賞状を贈ることが、宗教活動を助長する虞、すなわち憲法違反となる虞があるということを、当然、被控訴人も承知していたはずである。被控訴人は、上記憲法違反を防止する注意義務があったにもかかわらず、本件賞状贈呈という社会通念上妥当性を欠く行為をしたのであるから、憲法違反の可能性を認識しつつ、故意にこれを行ったというほかはない。

創価学会系の株式会社潮出版社が平成23年2月1日に発行した月刊誌「潮」に掲載された竹内良夫氏(東洋大学名誉教授・九州国際大学元学長)の「『平和・文化・教育』で世界の民衆を結ぶ。」によると、創価学会は「平和・文化・教育」の3本柱で活動を展開しており、その第2番目の「文化」の一環として、民主音楽協会等の池田が創立した機関による活動もされているとのことである。筆者は、民音等の活動について、「SGI(創価学会インターナショナル)が、世界の192カ国・地域へと広まった理由もこのあたりにある気がする」ともしている(甲21)。

すなわち、民主音楽協会の活動は、創価学会の宗教活動と、密接な関係にあるといえる。 

控訴人は、「民音への自治体等からの感謝状については、創立者名を併記されることが多いことも考慮」したというが、高槻市に対する功労・貢献について表彰・感謝するのに、功労・貢献の度合いの異なる他の自治体等の例を考慮する必要はないのであるから、被控訴人の前記主張に合理的な理由はない。

乙4によると、被控訴人は、池田への感謝状につき、インターネットで調査したというが、「池田大作 感謝状」のキーワードで、最大手の検索サイト「Google」で検索すると、「大阪府寝屋川市池田大作-感謝状問題』」と題するサイトが先頭に出てくる(甲22)。これは、寝屋川市が池田に対し感謝状を贈呈した問題を取り上げたものであり、本件とほぼ同様の事件である(この寝屋川市の事例よりも、表彰条例に反する「国際文化交流貢献賞」としている本件のほうが悪質であるが)。その他、甲23や24のサイトも、検索結果の上位に現れ、リンクされているのですぐに見つけることができる。また、甲14のような週刊誌の記事や、そのタイトルが掲載された新聞広告等は、普通に生活していれば、誰もが時々目にするものである。よって、池田に本件賞状を贈るような話が出た場合、池田や創価学会の宗教活動を助長することになりはしないかと、疑問を抱かないほうが不自然である。

宗教活動に無関係であったとしても、創立者にだけ賞・感謝状の類が贈られることや、公的機関の発する一般的な賞状では見られない美辞麗句で文面が埋め尽くされていることに、普通の感覚であれば、大いに疑問をもつはずで、税金公金で運営する公的機関であれば、尚更、慎重に贈賞につき審査しなければならなかったはずである。

以上からすれば、文化振興事業団の推薦書では、被贈呈者の主体が民音であったのに、被控訴人がこれを池田に変じたことにより、齟齬が生じていることは、被控訴人が、故意に、表彰条例違反を犯し、かつ池田の宗教活動を助長した証左であるといえる。

⑶ 「⑶ 『賞状の授与理由』について」について

控訴人は縷々主張するが、文化振興事業団の推薦書記載の推薦理由と、被控訴人作成の本件賞状の内容の齟齬について、合理的な理由は述べられていない。

前項記載のとおり、本件賞状の文章全てが、池田個人だけを礼讃する内容であるから、被控訴人は、合理的な理由もなく、不当に、文化振興事業団の推薦理由とは違う内容の本件賞状を作成したといわざるをえない。


2 「2 『民主音楽協会の活動実績を授与理由とした場合の疑問』について」中、

⑴ 「⑴ 『民主音楽協会を代表するもの』について」について

控訴人は、「民音高槻市での公演が35周年の節目を迎えることから、その創設者としての池田大作氏の貢献にも感謝の意を表す趣旨」で本件賞を贈呈したとしている。しかし、30周年なら分からなくもないが、35周年というのは中途半端な年数であり、何故それが節目といえるのかについての合理的な説明は全くない。甲8の3頁に記載のとおり、35周年の意味を控訴人が議会で質問したところ、失笑が他の議員から漏れたほどであるが、当時、被控訴人も合理的な答弁ができなかった。

したがって、上記被控訴人の主張は、こじつけとしかいえない。

⑵ 「⑵ 『池田大作個人の実績が記載されている』について」について

控訴人は、4乃至10行目には、池田個人ではなく民音の活動・実績を記載したと主張するが、1⑵記載のとおり、明らかに全文が池田個人の活動・実績についてのものであり、被控訴人の前記主張は虚偽である。

本件賞状贈呈は、民音の活動・実績に対する顕彰・感謝が目的ではなく、それを口実として、池田個人を礼讃することこそが、真の目的であったといわざるをえない。


3 「3 『本件賞状の表題を国際文化交流貢献賞とした意図』について」中、

⑴ 「⑴ 『本件条例16条との関係』について」について

控訴人は、「感謝状にかかる表記、あるいは敬称については、高槻市長の裁量の範囲である」と主張する。しかし、表彰条例16条に「感謝状」と規定されたものを、感謝状とは分からない表題・文面にすることは、裁量の範囲を逸脱しているし、そもそも、そのような賞状は、感謝状とはいえないから、同条に基づき贈呈されたものとはいえず、同条例違反といわざるをえない。敬称も、池田だけに「様」付けをしているのであるから、公平・平等な運用とはいえず、「国際文化交流貢献賞」という名称とも相俟って、他の被贈呈者に比して、池田の名声・権威を高める効果があるのであるから、宗教活動を助長するものといえる。また、池田の宗教的・政治的関係により、他の被贈呈者を差別していることからすれば、憲法14条1項に反するといえる。

控訴人は、本件賞状の文面について「民音の市政進展への功労又は貢献の内容を端的に示し、『感謝』の対象をわかりやすく明示したものに過ぎず、『感謝状』の文言をわざわざ避けたわけではない。」と主張するが、本件賞状の文面は、池田の活動・実績を礼讃するものであり、民音の活動はあくまで池田の功績の一つという扱いで、民音の活動への感謝をわかりやすく明示したものとは全くいえない。本件賞状を「感謝状」であるとしながら、表題を「感謝状」としなかったことについて、合理的な理由も見られない。

そうすると、やはり、本件賞状は、感謝状ではない別の何かであるといわざるをえないから、被控訴人が本件賞状を表彰条例16条に基づき贈呈したというのであれば、同条に反するというほかはない。

⑵ 「⑵ 『過去の例との対比』について」について

控訴人は、過去の例は、寄付やボランティア等の善行にかかるものであり、いずれも「感謝状」の表題で端的に表現でき、他の表題を用いる必要がなく、他方、本件賞状は、民音及び池田の功績を分かりやすく表記したものと主張する。

しかし、民音については、高槻市で公演をしたことを端的に表記すれば足りるし、池田については、民音創立者であっても、高槻市政の進展に功労・貢献があったとは言い難いから、そもそも表記する必要はない。

過去の例においても、各被贈呈者の善行は様々であろうし、団体であれば、必ず創立者が存在するし、団体以外での創立者の活動もあろう。しかし、過去の例は、全て、創立者以外を被贈呈者とし、賞状の文章は、端的かつ画一的なもので、創立者の市政に対する功労以外の活動等についての記載はなかった。

したがって、本件につき、仮に感謝状を作成するのであれば、過去の感謝状と同様、民音あるいはその代表者を宛先とし、「感謝状」の表題と、端的に民音の活動・貢献の内容を示した文面で足りるといえる。
よって、被控訴人の主張は失当である。

⑶ 「⑶ 『本件賞状の表題を国際文化交流貢献賞とした真意』について」について

控訴人は、本件賞状の贈呈にあたっては、表彰条例16条に基づき適正に執行したとするが、以上のとおり、本件賞状は、明らかに「感謝状」ではないのであるから、不適正な執行がされたといえ、同条例違反であることは明らかである。


4 「4 『本件条例16条の要件を充足するか』について」中、

⑴ 「⑴ 『平和、文化、教育』について」について

控訴人は、「平和」、「文化」、「教育」が創価学会の旗印であることは不知であると主張する。

しかし、被控訴人が、池田の功労・貢献を認め、本件賞状を贈呈する以上、当然、池田の活動・実績について調査・審査をしなければならなかったはずである。被控訴人は、乙4のとおり、インターネット等で調査をしているが、池田が創価学会の名誉会長であることは当然認識しているはずであるから、宗教に対する援助,助長,促進に当たらぬよう(憲法20条3項及び89条に違反せぬよう)、慎重に調査すべき責務があったのであり、その点にごく普通に注意を払い調査をすれば、被控訴人が本件賞状に記載した「平和、文化、教育」が、創価学会の旗印であることは、すぐに分かったはずである(甲25)。不知ということは、被控訴人は、池田の活動・実績について何ら調査をしなかったということであるから、「平和、文化、教育」という宗教的記載をして、池田の宗教活動による「世界的な御貢献」や「数多の御貢献」を顕彰したことは、被控訴人の故意あるいは重過失によるものということができる。

また、被控訴人は、「平和」、「文化」、「教育」が、民音の活動・実績と共通通する部分でもあり、京都市の例をも参考にしたと主張する。

しかし、民音が、「平和」や「教育」につき活動したとは被控訴人の主張からも見受けられないし(そう捉えるのは強引で不自然であるし、甲21においても「文化」の中に位置付けられている)、これまで被控訴人がこのような主張をしたことはなかった。京都市が贈呈したのは、「国際音楽文化交流貢献賞」であり、本件賞も「国際文化交流貢献賞」であるから、民音については、「文化」についてのみの活動といえる。仮に、それ以外の活動があったとしても、やはり「文化」が主といえるのであり、そうすると、語句の順番は、「文化」、「平和」、「教育」というふうに、「文化」が先にくるのが自然である。ところが、「平和」、「文化」、「教育」の語順なのであるから、創価学会の旗印を意識したもの、つまり、創価学会の宗教活動を象徴的に表したものと考えざるをえない。

以上からすれば、被控訴人は、池田の「平和、文化、教育」に関する活動・貢献について裏付けの調査をしていないのであるから、本件賞状の「貴殿は世界の平和と人類の幸福の実現を目指し 平和・文化・教育の推進に情熱を傾けられ 世界的な御貢献を重ねてこられました。」という冒頭部分及び8乃至10行目については、創価学会の名誉会長としての池田の宗教活動に対して根拠もなく手放に礼讃・絶賛する表現にほかならない。こうした表現をした賞状を贈呈し、池田の名声を高める手助けをすることは、宗教に対する援助,助長,促進に当たるから、憲法20条3項及び89条に違反する。また、池田の上記宗教活動は、高槻市政に対し功労・貢献したものとはいえないから、表彰条例16条の要件には該当しない。

⑵ 「⑵ 『池田大作個人に関する記載』について」について

控訴人は、推薦書(甲5の3枚目)に「創立者 池田大作」と表記されていることから、「一定の範囲で池田大作氏の活動や実績に触れたまで」としている。

しかし、1⑵記載のとおり、明らかに全文・全範囲が池田個人の活動・実績についてのものであり、「一定の範囲で・・・触れたまで」という被控訴人の主張は過小である。

また、賞状を作成し贈呈するのは被控訴人であるのだから、推薦書に「創立者 池田大作」と表記されていたとしても、社会通念上妥当性を欠く宛名なのであるから、被控訴人の責任において排すべきであった。これができないというのであれば、被控訴人の調査や審査には意味がないということになる。しかし、むしろ、被控訴人は、文化振興事業団の推薦書記載の贈呈理由から大きくはみ出して、池田の功績を強調する文面に仕立て上げたのであり、これは、推薦書に池田の名があったから縛られたというような上記の言い訳とは矛盾する。

文化振興事業団の推薦意図を超えて、被控訴人が、池田個人の活動・実績を称えたことは、以上より明らかであり、表彰条例16条の要件(市政の進展に功労があったもの又は貢献したもの)には全く該当しないのであるから、同条に反するといわざるをえない。


5 結語

以上のとおり、被控訴人の釈明には、どれについても、合理的な理由が存在しないといわざるをえない。